マントヴァという選択|名前も知らなかった町へ
― 途中下車という、静かな贅沢 ―
ヴェネツィアを発つ朝は、いつも少し名残惜しい。
スーツケースを引きながら石畳を歩き、
「もう少し、この旅を引き延ばしたいね」
そんな気持ちが、自然と口に出た。
ローマ行きの列車は何本もある。
そのまま乗ってしまえば、何事もなく次の目的地へ着く。
でも私たちは、駅のベンチで少しだけ立ち止まった。
時刻表を見つめながら、
「途中で降りてもいいよね」
そんな一言が、旅の流れを変えた。
候補はいくつかあった。
建築の美しいヴィチェンツァ、
城壁に囲まれたフェラーラ、
崖の上の町オルヴィエート。
どれも魅力的で、どれも“正解”になり得た。
けれど最後に残った名前があった。
マントヴァ。
正直、それまで強く意識したことのない町だった。
湖に囲まれた小さな街。
観光地として前に出すぎない場所。
その説明を読んだだけで、
今の私たちには、それで十分だと思えた。
列車を降りると、空気が違った。
音が少なく、視界が広い。
駅前からすでに水の気配があり、
遠くまで見渡せる空が、気持ちをゆるめてくれる。
この日は、二人とも少し軽やかな装いだった。
歩きやすい靴、風を通すトップス、
色味は抑えめで、街に溶け込むように。
旅の後半は、こういう服がいちばんしっくりくる。

湖沿いを歩く。
特別な目的はない。
写真を撮るために急ぐこともなく、
ただ、水面と街並みを眺めながら進む。
「有名な観光地じゃなくて、よかったね」
「うん、今はこういうところが落ち着く」
言葉は少なくても、気持ちは同じ方向を向いている。
それが分かる年齢になったことが、
少し嬉しかった。
旧市街に入ると、建物は重厚だけれど、威圧感はない。
人の暮らしが続いてきた時間が、
街全体に染み込んでいるようだった。
カフェに入って、エスプレッソを一杯。
甘いものを少しだけ分け合う。
ここでは、何かを“足す”必要がない。
飲み続けてきた旅だからこそ、
この静けさが、ちょうどいい休符になる。
もし、あの日そのままローマへ向かっていたら。
マントヴァは、ただ列車の窓の外に流れる名前だっただろう。
けれど降りてみたことで、
この街は、確かな記憶の場所になった。
翌朝、再び列車に乗る。
ローマはもうすぐだ。
「また来る理由ができたね」
その一言で、マントヴァとの距離が、
ぐっと近づいた気がした。
旅は、目的地だけでできているわけじゃない。
途中で立ち止まった場所が、
いちばん深く心に残ることもある。
マントヴァは、そんな町だった。


